髙倉神社は、日本書記所載の古社にして、人皇第十四代仲哀天皇御勅祭の大社なり。大倉主命菟 夫緇媛命の二を奉祀し、中世に至り天照 大神を相殿に合祀す。往古は神田千町の勅定あり伊賀彦を祝部職と為し給ひ。住吉は、社殿宏壮に回廊をめぐらし桜門を構え二十余社に摂末社、境内に鎮座ありしが、今は、境内摂末社九社境外末社二社あり、社領の神田も正長年間(五百五十九年前)将軍足利義教の時代は神田二十四町六段、垣崎の庄にて二百四十町歩あり。尚神林の地域も広大なりしが、豊臣秀吉及び小早川秀秋の時代に悉く没収せられぬ。氏子の地城は遠賀川西二十四村にして、現時の岡垣町、芦屋町(山鹿を除く) 遠賀町、中間市の内底井野
垣生(下大隈を除く)の五町村にて、戸数三千余戸あり。永仁四年(六百八十七年前)太宰少弐の書状応永十四年(五百八十七年前)の神事帳、天正五年(四百七年前)勧進帳等に徴して古昔の盛事を追懐せしむ、天文五年(四百四十七年前)丙申二月に、九州探題大内義隆、社殿の造営あり、結構美を尽せしが、永禄二年(四百二十七年前)己未大友氏の兵火に罹りて社殿を始め社記宝物等悉く烏有に帰し、延徳三年(四百八十七年前)辛亥三月須藤駿河守行重の寄進毘沙門天の銅像のみを残せり。天正十五年(四百七年前)丁丑二月国主小早川隆景の社殿造営あり、其後代々の国主の信仰篤く慶長十八年(四百四十二年前)発丑八月黑田 良政の大梵鐘及び鳥居を奉納あり寛文五年(三百十七年前)乙巳十月黒田光之の神田五百坪の寄進、延宝五年(三百七年前)
丁巳神山五千坪の寄進、延宝八年庚申八月本社末社其他の社殿を再建あり天和二年壬戌十二月社領三十石を附せられる、京保二十年(二百六十二年前)乙卯黒田継高の神山五百坪の寄進、寛延三年(二百二十九年前)庚午九月神山一千坪の寄進あり、宝暦元年(二百二十七年前)に本社を遠賀郡の総社と定められ、宝曆十一年(二百十七年前)辛巳八月に社殿の修理を行はせらる。明治五年壬申十一月郷社に指定せられぬ。現時の神殿及び幣殿は、明治九年丙子七月九日遠賀郡の営進に係れり。祭儀は年中三度の大祭には、在庁官人を遣はして監察せしめ給ひ武家執政の後も、尚、検使来りて祭儀を援けしめられき。奉仕の神職は、其当時の祠官を除く外は、明治十二年後迄は、郡内の祠掌年番交替にて奉仕したりき。例祭の時の如きは遠賀郡八十三村ょり祭儀に列し、神輿芦屋の下宮に神幸あり。十二騎の流鎬馬、相撲、猿楽等あり明治十三年頃ょりは、斯る行事も、時移り世変るにつれて廃れぬ。古は神伝院、千光院、総智院、勝業寺、正覚寺、長福寺等の五坊住ありしも、明治の初年に皆廃せられ、又神社直属の社家、五戸、巫女、四尸ありしも、同峙に廃れぬ。神地には、御神木として杉、松、楠、楓、挪の五樹ありしが年代 を経るにつれて枯れ朽ちて 、今は神功皇后御親裁の綾杉と楠(いずれも天然記念物に指定重要文化財なり)のみ、繁茂して、昔を偲ばせぬ。境内地は高津峰の境内を経て、四千三百坪あり、神域は老木枝を交え最も神々しく社殿の南霊地 高津峰高く聳へ、山腹には、乳垂 の霊泉湧出し泉水流れて乳垂川となりて、清々しく神前を流る、大正九年九月二十八日昇格して県社に列せられ、昭和二十年官幣社に昇格されんとして終戦の為其の事止みぬ。
現代語翻訳
髙倉神社は、日本書記に記載された古い神社であり、第十四代の仲哀天皇によって勅祭が行われた大きな神社です。大倉主命と菟夫緇媛命の二つの神を祀っており、中世には天照大神も合祀されました。かつては神田千町が定められ、伊賀彦が祝部として任命されました。社殿は大きな回廊を持ち、桜門があり、20以上の末社がありましたが、現在は境内に9つの末社と外に2つの末社があります。また、領地はかつては広大で、遠賀川の西側に位置する24の村にまたがっていました。そのうちの一部は現在の岡垣町、芦屋町(山鹿を除く)、遠賀町、中間市の底井野、垣生(下大隈を除く)の5つの町村に含まれており、戸数は3000以上でした。永仁4年(約687年前)には太宰府の書状、応永14年(約587年前)の神事帳、天正5年(約447年前)の勧進帳などが収集され、古代の盛事が回顧されました。天文5年(約447年前)には九州探題大内義隆によって社殿が建設されましたが、永禄2年(約427年前)に大友氏の戦火で社殿や社記などが全て失われました。その後、延徳3年(約487年前)には須藤駿河守行重によって毘沙門天の銅像のみが寄進され残されました。天正15年(約447年前)には国主小早川隆景によって社殿が再建され、その後の国主たちも信仰を篤くしました。慶長18年(約442年前)には黑田良政が大きな梵鐘や鳥居を奉納しました。寛文5年(約317年前)には黒田光之が神田の500坪を寄進し、延宝5年(約307年前)には神山の5000坪が寄進され、延宝8年(約302年前)には社殿や他の社殿が再建され、天和2年(約297年前)には社領に30石が与えられました。京保20年(約262年前)には黒田継高によって神山の500坪が寄進され、寛延3年(約229年前)には神山の1000坪が寄進されました。宝暦元年(約227年前)には本社を遠賀郡の総社と定め、宝暦11年(約217年前)には社殿の修理が行われました。明治5年(約151年前)には郷社に指定され、明治9年(約147年前)には遠賀郡の営進によって現在の神殿や幣殿が建てられました。祭儀は年に三度の大祭では在庁官人が監察し、武家の統治後も検使が来て祭儀を補助しました。神職は明治12年まで郡内の祠掌が交代で奉仕しました。例祭の際には遠賀郡の83村から祭儀が集まり、神輿が芦屋の下宮に神幸されました。十二騎の流鎬馬、相撲、猿楽などの行事がありましたが、明治13年頃からは時代の変化によって廃れていきました。古くは神伝院、千光院、総智院、勝業寺、正覚寺、長福寺などの寺院がありましたが、明治初年には全て廃寺となり、神社直属の社家、五戸、巫女、四尸も廃れました。境内にはかつて杉、松、楠、楓、挪の五樹がありましたが、経年によって枯れ朽ち、現在は神功皇后御親裁の指定である綾杉と楠のみが繁茂しています。境内地は高津峰の境内を経て、4300坪あり、神域は老木枝を交え、特に南霊地の高津峰は神々しく、山腹には乳垂の霊泉があり、清々しい泉水が乳垂川となり、神前を流れています。大正9年9月28日に県社に昇格し、昭和20年に官幣社に昇格しましたが、終戦によりその計画は中止されました。