當社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑業に行幸し給いし時、岡の縣主の祖熊鰐周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挾抄者(かじとり)倭國莬田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる 即ち大倉主命莬夫羅媛二神の本宮なり古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも永禄二年大友宗麟の兵火にかかり壮麗なりし社殿も貴重なる社宝と共に烏有に歸せしが天正十五年國主小早川隆景公之を再建慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり再来歴代の國主神田神山を寄進して崇信の念殊に厚く宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる 明治五年十一月郷社に列せられ大正九年縣社に昇格す現今の神殿幣殿は明治九年田遠賀郡の造営もよるものにして古は神傅院千光院穂智院勝業院の六坊あり又社家五家巫女四家ありしも明治初年同時に廃せらる境内には御神木として杉楠松楓柳の五樹ありしが今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せリ。

現代語訳

当社は、国史所に記載される古社で、第十四代の仲哀天皇が即位した年の正月、己卯の朔日に行幸された際、岡の国主の祖である熊鰐周防婆歴浦(さばのうら)が、岡の浦に案内するために海路を導いたとされています。このとき、神が現れ、天皇は伊賀彦命を祝部とし、千町の神田に神祠を建立することを勅命されました。それが大倉主命と莬夫羅媛命を祀る本宮であり、古くから武人に崇敬され、年に三度の大祭では官人が監督し、武家の支配後も検使が祭儀を助けるなど、厚い信仰がありました。

天文五年には、九州探題の大内義隆が社殿の造営を行いましたが、永禄二年には大友宗麟の兵火によって社殿が焼失し、多くの社宝とともに失われました。しかし、天正十五年には小早川隆景が再建し、慶長十八年には黒田長政が梵鐘と鳥居を奉納しました。その後も、歴代の国主が神田や神山を寄進し、崇敬の念が厚く、宝暦元年には旧遠賀郡の総社として定められました。

明治五年には郷社となり、大正九年に県社に昇格しました。現在の神殿や幣殿は、明治九年に遠賀郡の造営によるものです。古くは神傅院、千光院、穂智院、勝業院の六坊があり、また社家五家と巫女四家があったが、明治初年に廃止されました。境内には、かつては杉、楠、松、楓、柳の五樹が神木として鎮座していましたが、今は神功皇后の御裁きによって綾杉と楠のみが残っています。